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一 夢 庵 風 流 日 記

日の丸・君が代

「日の丸」っていつから日の丸なんだろう・・・



 1.太古

紀元前3世紀頃、弥生時代から「太陽」と「月」を意識するようになった大和民族。

日本人には、元旦の初日の出、毎日日の出に拍手を打つなどの習慣が根付いている、
秋の夜には「月見」に興じ、「日待(ひまち)」「月待(つきまち)」の行事も生まれた。

聖徳太子が煬帝に送った「日出ずる処の天子から~」、このとき漢民族は
自らを中華と称し、周辺民族を未開蛮族と決め付け、東夷・西戎・南蛮・北荻と呼んだ。

日本は「倭」と呼ばれ、「小さい」という軽蔑の意味がこめられていたのだ。

大化改新の頃、「日出ずる処」は「日本」となり、日本のこととなり、
天武の時代頃から「日本」という国号を用いるようになる。

太陽をかたどったデザインを旗に用いるようになったのは、大宝元年(701年)正月、
大宝律令が制定され古代天皇制が確立したころのこと、錦地に日月を金銀であらわし、
長方形のものを棹の先から下げるようにした日幅(につぱん)・月幅(げつぱん)で、
宮中の大極殿でも用いられ、宮中の儀式で長く使用された。


   日の丸国旗 【100cm×150cm】日の丸国旗 【100cm×150cm】


 2.武家社会

「平家物語」「源平盛衰記」に記されているが、「日の丸」を戦陣の旗指物
(はたさしもの)にしたり、扇に描いたりした。

那須与一の扇落としの的も「日の丸扇」である。

元寇のとき、征夷大将軍惟康親王が、モンゴル軍退散を念じ、旭日旗に
「南無妙法蓮華経」の題目を日蓮上人に書かせたという説がある。

南北朝内乱では、建武新政に反逆した尊氏が、楠木正成を湊川に破って都に攻め
上ったとき、光厳院の院宣を奉ずる形をとり、太陽をあらわした「錦の御旗」を
立てていたといわれている。

そういえば後醍醐天皇が使ったとされる日の丸が、長く吉野に伝えられていた。


 
 3.戦国時代

戦国大名も積極的に「日の丸」を用いている、上杉勢や伊達政宗・・・。

「武家義信八百ばかり、悉く甲にて腰差なども取隠し、謙信勢の油断の処へ
 俄に取掛かり候ひて、謙信日の丸の旗を目にかけ急にかかり入り候」

 (川中島五度合戦次第・史籍集覧)

武田信玄、上杉謙信のほかに、小西行長がつかったという。

権力の正当性を誇示することと、縁起が良い、めでたいものとして使用したようだ。


   応援旗 日の丸(100本)応援旗 日の丸(100本)


 4.江戸時代

徳川幕府は1671年、河村瑞賢に命じ、東回り航路の開発に成功、その後西回り
航路の開発にも成功する。これにより、海難・盗難に悩まされていた航海事情は
一変する。瑞賢の働きにより、諸国からの官米回漕はもとより、上方・江戸の商業
資本は全国の生産地と結びつき、元禄町人社会の繁栄をもたらしたのだった。

東回り・西回り航路が整備されたのをきっかけに、幕府は海賊や難破をよそおった
海難を防ぐために、「日の丸」の旗を官船の船印とした、この日の丸を船印とした
御城米積船は、毎年、西回り東回りを航海して幕末まで及ぶこととなる。

「日の丸」が幕府のシンボルであることは沿岸部の人たちは承知していたのだ。


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 5.明治時代 前編

明治元年、現在の内閣にあたる「太政官」が設置される。
明治3年2月27日、「太政官布告第五十七号」を発し、
「御国旗に寸法別紙之通に候事」として、大中小日の丸の寸法を詳細に決める、
商船国旗が定められたのであった。

末期の徳川幕府は列強に伍して軍艦を所有するなら日の丸の船印を掲げなければ
ならなかった、結局、明治政府もその後を引き継いだ形で、船印=国旗と考えて
いたようである。

日の丸自身、明治政府のシンボルとして堂々と誕生したものではなかったのだ。

商船国旗が定められたのに続き、明治3年6月15日付けの太政官布告第三五五号
により陸軍で日の丸を使用、その後11月3日に海軍も使用することとなった。

白地に紅は今と一緒なのだが、陸軍は正方形に近く、旭日旗であり、海軍も
明治天皇が授与された旭日旗である軍艦旗を使うこととなる。

また寸法や丸の位置などに「号」により若干の相違があるが、総じて国民は
「日の丸」に親しんだ。


 6.明治時代 中篇

日の丸は掲揚などが強制されたのであろうか?明治政府はいかなる方策をとったのだろう??

「明治事物起源 下巻」の「国旗掲揚の始」の二節をここでは紹介しよう。

「明治五年九月、京浜鉄道の開通式に主上の臨御あり。市民之を栄とし、居留外人が
 常に自国の大祭日に国旗を掲げ、又は珠燈(丸い小提灯)を点ずる例に倣ひ、各戸
 軒頭に日章旗及び燈籠を掲ぐ。爾来、国民一般の表慶方法とはなれり。明治十年九
 月三十日、屯田兵の札幌に帰りし時、市中皆国旗(日の丸)を掲げ、官吏・学生・
 外国人まで出て迎へしこと、同十月十七日の読売新聞に見えたれば、歓迎の誠意を
 表するに国旗を掲ぐることは、国内の慣例となりしなるべし」

つまり外人の影響を受けて、祝日や記念日、行事の際に自発的に掲げるようになった
のである、この辺は、日本人らしいといえば日本人らしい、やってみるかと真似から
はじめていった国旗掲揚であった。



 7.明治時代 後篇

明治5年2月24日、「天長節・紀元節」という祝祭日に国旗掲揚が通達される、
ここで初めて天皇制と国家神道の祭典と結びついていくこととなる。

基本的に「日の丸」は外国に対しては、標識・船印であったが、国内的には天皇制
権力のシンボルとしての役割を発揮しはじめる。明治22年の大日本帝国憲法発布
あたりから折りにふれ持ち出され、日清日露のころになると戦意高揚の役割を担っている。

「日本の国旗」という文言が法律で初めて使用されたのは、明治32年の船舶法に
おいて、第二条で「日本船舶ニ亦ザレバ日本ノ国旗ヲ掲グルコトヲ得ス」と規定している。

その後政府は大正13年、次官会議決定「国旗掲揚ニ関スル件」によって、
次のような意義を示す。

「案ズルニ国旗ハ国家ノ表章トシテ最モ敬意ヲ表スベキモノナリ国家的祝祭日ニ
 当リ官庁率先シテ国旗ヲ掲揚シ民間各戸之ヲ掲グルニ於テハ国家的異議ヲ明シ
 国民精神統一ノ一助タラシムルコトヲ得ン」

1931年大日本帝国国旗法案が上程される、これは国旗の制式や掲揚日、
取り扱いなどが規定されていたが貴族院で廃案になる、このときは日本軍の
軍事行為に関心は傾斜しており、日の丸法案どころではなかった。

大日本帝国国旗法案が廃案となったその年、満州事変から15年戦争に突入していく。

戦後、GHQにより一時期国旗掲揚は禁止されたが、1949年1月から解除される。

昭和29年に発足した自衛隊は日本国憲法の規定から正式の軍隊ではないため、
訓令によって隊旗は、「日の丸」と定められている。

国旗は一国の尊厳を象徴するものであることは万国共通だ、日本の刑法の
国旗損壊罪には、外国に侮辱する目的でその国の国旗や国章を損壊、除去、
または汚損した者は二年以下の懲役、または4万円以下の罰金に処すると
定めている。ただしこれはその国の政府の請求による(第92条)。


 「まとめ」

今回は明治時代でぶった切ってしまった、あまりの長文で読む気が失せた人が
大半であろう(笑)。 とにもかくにも「日の丸」自身はごく自然的に発生した
ものであり、対外的には商船の利用と軍艦に掲げるものであったということ、
掲揚に関しては国民が真似事として始め、国旗に愛着を持っていた。

それが徐々に法制化され、対外的な軍事緊張のなか、シンボルとして担がれて
いく、これは致し方ないところであろう、そして敗戦を迎えれば、そのシンボルが
懐疑的に取り扱われる、勝っていれば持ち上げて万歳だったのだろうな。


 ということで次回は、占領軍からの復権と日の丸問題でぶつかる国内、
 各国の法制化について書く。


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国旗問題は敗戦が大きなカゲを及ぼしています


わたくしの国の旗と歌  「日の丸」「ヒノマル」  だれのための「日の丸・君が代」?

「一番右は軍国主義復活、アジアに認められる国旗をと叫ぶ本です・・・」


2006年5月3日記載


”君が代 ってなんだろう?”



「日の丸」のGHQ占領統治からの脱却と共産主義者との戦いを書く前に、
矛先を変えて、「君が代」を少し見ておこう、気分屋の慶次ブログはままあること・・・


1.日本最初の軍隊行進曲

明治元年九月、官軍東征に際し、日本最初の軍隊行進曲「とことんやれ節」が演奏された。
作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎であった、薩摩藩は16,7歳の青年約30人を
横浜の外国人居留地に派遣、英国歩兵隊の軍楽隊で学ばせる意図があった。

♪宮さん宮さん お馬のまへで ちらちらするのは 何ぢゃいな
 トコトンヤレ トコトンヤレ あれは朝敵 征伐せよとの
 錦のみ旗ぢゃ 知らないか  トコトンヤレ トコトンヤレ

*宮さんは有栖川宮たるひと親王のこと、皇女和宮の許婚だった宮様


軍歌のすべて《KiNG Twin BEST》   実用シリーズ4 運動会



2.英国軍楽長 ジョン・ウィリアム・フェントンの教え

日本海軍は明治3年から英国式にすることが定められていたので、フェントンは海軍と
深いかかわりをもっていた、ある日、日本に国歌がないことを知ったフェントンは、

「外国にはみな国歌というものがあって儀式のときには、これを奏するが、
 日本にはあるか?」と練習生に質問した、練習生が、「ない」と答えると、
「日本にもあったほうがよいと思う。先輩に頼んで作詞をつくってもらえ。
 そうすれば私が譜をつけて教えよう」と話したのだった。

この練習生の西健蔵が大山弥助(後の大山巌)に報告、その後、フェントンは正式に

「ヨーロッパ各国には国歌があり、外国の軍艦が入港してきたときには、国歌を演奏
 する習わしがある。日本にそれがないのは非常に残念である。私が作曲して差し上
 げる。歌詞を出してもらいたい」と告げた。

ここに儀礼音楽としての国歌を制定すべきという建議がはじめて出てくる。

大山らは英国の国歌、「God Save the King」を思い出し、「君が代~♪」という
歌詞を作り出す、しかしまだまだこれは序の口。

結局、フェントンが作曲した日本国歌は洋風で人気がなく、廃止しようという声が
高まり、明治九年十一月三日の天長節での吹奏を最後に廃止された。

♪ 御民われ生けるしるしあり 天地の栄ゆる時に あへらく思へば (万葉集)

これがそのときの歌詞である。


世界の国旗国歌   ぜひ、一度お読みください。修身



3.いよいよ「君が代」登場

海軍軍楽隊長・中村祐庸らは明治九年、海軍宛に次のような改訂見込書を提出する。
「宮中ニ於テ詠謳セラルル音節ニ協合セシムルヲ以テ改正ノ正鵠トナスベシ」

雅楽をベースに「君が代」をつくるべきという意見書だ。

結局、この提案は西南戦争などで延び延びにはなるが、日本の音楽教室に大きな影響を
及ぼしたドイツ人エッケルトの協力などにより明治十三年十月二十五日に完成し、
十一月三日の天長節で披露、これが現在の「君が代」として至っている。

林広季、奥好義が作曲、林広守が手を入れ、エッケルトが編曲をした。

ここで教育に携わるもの、教科書を注意深く見ているものはおかしなことに気づくはず、
それは、作曲の名前だ、林広守が俗曲者となっているのではないか?
これ、実は当時もかなり話題になった盗作、ここでは詳しく書かないが、林広守が
奥好義の曲を横取りしたのだが・・・「君が代に関する一切の発言私語を禁ず」

これが林が緘口令として強いた自己保身の方法だった、今もそれが続いているのか・・・


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4.ここで歌詞はどこから来たのだろうか

薩摩藩砲兵大隊長・大山巌らが幼少の頃から愛唱していた薩摩琵琶歌「蓬莱山」の
文句のなかから取り出した「君が代は~」の元歌は、日本最古の勅撰和歌集
「古今和歌集」にある。

わがきみは千代に八千代にさざれいしのいわほとなりてこけのむすまで(詠み人知らず)

この歌は「新撰和歌集」や「和漢朗詠集」などにもおさめられており、
宮内庁所蔵の「和漢朗詠集」(1228年)には「きみがよは」として登場している。

ただ基本的に、上記の歌が「君が代は」となっているものは発見されていない。



5.君が代は~これってどんな意味なんだろう

さてさて、「君」がなにを指すかで、いつも大揉めになり殺傷沙汰にまでなるのだが、
ここでは「君」を様々な歌や過去の慣習から取り上げて、簡単にまとめておきたい。

結論からいえば、君は天皇の意ではなく君が代自体は一般に対者の長寿を指している。

これを賀歌と呼ぶのだが「あなた、小石が大石になって苔がはえるまで長生きしてね」
という意味であり、我が君も君が代もどちらの君も相手のことを指している。

この歌には面白い信仰も含まれており、さざれ石(小石)が巖となる、そう成長して
大石となり苔がつくという石の成長信仰が信じられていた時代だとわかるのだ。

この「わがきみは~」は目出度い歌とされ、酒宴や千秋楽でも取り上げられ活用されて
きた歌であったのだ。


では、ここで「君」が「あなた(男女異性へ)」として使われている歌を出そう、

A.居明かして君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜は降るとも(万葉集)

B.君がため春の野に出てて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ(古今集)

では天皇はどうあらわしたのか? 「大君」と称した歌が万葉だけで50首ほどもある。

C.海ゆかば、みづくかばね、山ゆかば、草むすかばね、
  大君のへにこそ死なめ、かへりみはせじ      (万葉集)

D.大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも (万葉集)


Aは通い婚時代の歌、その念の強さに恐れ入る、Bも相手を思う気持ち溢れる歌だ、
Cは有名な「海ゆかば」、Dも有名な柿本人麻呂の歌。


「君が代」の履歴書   激安ミュージックCD軍歌~海ゆかば~



6.結局、君が代って・・・

平安時代には民衆の歌として朗詠された、室町時代には謡曲「老松」にも取り入れら
れている、文禄から慶長あたりで「わがきみは」が「君が代は」に代わったと思われる、
これはそのときの「隆達節」という僧隆達がはじめた流行歌で読み込まれている。

江戸時代は、浄瑠璃、船歌、盆踊唄、仮名草子、浮世草子、読本などなど用いられ、
古今集時代の「君」は、友人や愛人や主人といった、二人称、三人称として使用される。

つまり祝い唄である「君が代」は、古くから民衆の生活の中に溶け込んでおり、
思い出したように、大山は「蓬莱山」の中からこの唄をフェントンに手渡したといえよう。


「きみ」を天皇としても、天皇の御世は日本の歴史、つまり日本の永大なる平和と
発展を祈り、願う唄としてこの「君が代」は受け止められるはず、そう信じたい。



またまた途中でぶった切るようだが、次回は「教育勅語」からの「君が代」、
結局、「日の丸」も「君が代」も近代から極端に教育の場での取り扱いが
減少する、近代以降の日本史を積極的に教えようとしない現代日本の教育現場、
近現代を深く学ばせない今の学校教育に憤りを感じる・・・

キチッと教えよう、そうすればこのような長文ブログを書かなくてもすむはず。


*近現代教育がなぜ現場で行われないか? 文部省と日教組が近現代の取り扱いに
 温度差があるからです、サワラヌモノニタタリナシ、教育を受ける側はいい迷惑です。



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おまえさんが長生きしてますます栄えますように


〈民主〉と〈愛国〉   ゆき過ぎた表現の自由が日本を亡ぼす   歴史を忘れた大人と国をなくした若者たち



2006年5月5日記載


”白地に赤く日の丸染めてああ美しい日本の旗は~♪”


正直、この記事をここまで引っ張るとは思わなかった、今回はサラッとGHQの
対日占領政策に触れ、法制化への道を書いておく。

そして次回は、「君が代と教育勅語」、その後、共産党と文教族(左派と右派)、最後に、
「政治的思想とプロパガンダに振り回される学校と教科書 」、ここまで行きたい。


1.GHQによる対日政策

昭和20年8月15日、敗戦、GHQに占領された我が国は、同年10月から
昭和21年4月22日までの一時期、国旗「日の丸」の掲揚が禁止された。

「日の丸」「儀式」それから「君が代」の斉唱、これも禁止された。

昭和21年4月22日付、GHQは「12日の日本国祝日」に国旗掲揚の許可を
与えるが、なんでもそうだが、一度堕ちた権威はなかなか元には戻らない。

国家の象徴であり政治的シンボルである「日の丸」の失地回復はまだまだ続く。

昭和25年10月17日、朝鮮戦争勃発年と同時に文部省は国旗掲揚と「君が代」
斉唱を各学校に通達、アメリカも日本を反共の砦とする方針を固め、旧保守勢力の
回復を特別止めることなく、逆に利用しようとした、また革新派は弾圧されることとなる。

我が国は、その後、ソ連や中国を除外した連合国と講和し、同時に日米安保を締結、
沖縄だけはアメリカの直接的な支配におかれることとなる。

やがて、NHKが毎日の放送終了時、「君が代」を流すようになり、昭和27年には
「大相撲」復活、優勝力士への天皇賜杯授与のため、表彰式に先立ち「君が代」を
斉唱することとなった。


大相撲力士名鑑(平成15年度)   占領史録(上)   占領史録(下)新装版



2.占領軍からの脱却

昭和25年10月17日、天野貞祐文相は

「子供達に対し祝日の意義を徹底させ、また国家、社会の形成者としての自覚を深く
 させるため、祝日行事として訓話、講演会、学芸会などを開く際、国旗を掲揚し、
 国歌を唱和することが望ましい」との談話を出し、翌日の参議院委員会で談話の
真意について天野文相は、

「精神的に無国籍者のような現在の小学生を見るに忍びなかった」と説明している。

昭和33年には「道徳」の時間が設けられ、「君が代」は小学校音楽や行事にとりあげ
られていく、こうして入学式や卒業式で「君が代」を斉唱、国旗掲揚する学校が次第に
増えていった。

総じて言えば、アメリカの占領統治政策は良くも悪くもいい加減であった、
ソ連なら間違いなく国旗国歌どころか、人間性まで変えられただろうし、
悪い点では、現在の我が国が抱える領有権問題は、アメリカがいい加減だったから。
もちろん、その後の日本政府の怠慢もあるが・・・。


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3.法制化への道

ところで国旗掲揚や国歌斉唱を義務化するようになったのはいつなのだろう、
昭和33年、全国の学校で勤務評定が実施される、文部省は同年10月1日付の
官報告示による「学習指導要領」のなかで、「学校行事等」について、「国民の祝日
などにおいて儀式などを行う場合には、児童に対してこれらの祝日などの意義を理解
させるとともに国旗を掲揚し、君が代を斉唱させることが望ましい」と書くようになる。

慣習的に「日の丸国旗」と「君が代国歌」と認識していた部分を法制化させて強化して
いく、この動きは、その後も続いていく。

ボクシング世界選手権では国歌を唄う歌手に「坂本九」をつかったり、五輪においても
日の丸・君が代をなじませようという試みがなされてきた、三宅・円谷の頑張りは、
国民も喜び、「日の丸」「君が代」を胸をはって受け入れていく、その際、市川昆監督が
記録映画を作成したのだが、このとき、河野一郎が作品中に天皇の姿や日の丸掲揚、
君が代斉唱の姿が少なかったことに怒ったというエピソードまである・・・。

田中角栄も「日の丸」「君が代」を学習指導要領で義務づけしようとしたひとりだが、
国民世論がまだそこまで成熟していないのを感じ、あきらめる。


昭和58年には、自民党文教部会と応援する会が、「偏向教科書(左巻き)」に対し、
批判の狼煙をあげ、「日本を守る国民会議」は10月27日、結成式を行う。

この会は、神社本庁や生長の家などの右派宗教団体の肝いりで結成されたものであった、
よく言われる「文教族」というものだ。

そして自民党は昭和天皇在位60年を迎えた昭和60年、「国旗掲揚並びに国歌斉唱
の徹底」を都道府県連に通達した。

文教族→文部省→平成元年に掲揚・斉唱に反対するものは処分という義務化が打ち出された。


基本的に国旗掲揚や国歌斉唱の義務化は不必要、しかし我が国は特殊な事情がある、
同じ敗戦国のドイツは「ナチスマーク」を規制することで復権を図れたのだが、我が国は、
日の丸=国旗、この想いを断ち切ることは無理、そしてアカとの戦いがあった。

通常の国は、国旗と国歌を自国民が破ったり引きずり下ろしたりといった過激な行動は
しない、敗戦、思った以上にこのショックは我が国に大きく大きく影響を及ぼしている。


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次回は「君が代」の君が天皇になっていく過程、教育勅語と君が代・・・


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保守なら、江藤淳と白洲次郎は読んでおくべきでしょう



お・ま・けとして、大東亜戦争敗北までにつくられた教科書の中で、国旗「日の丸」
国歌「君が代」が、どのように記述されていたかを書き残しておく、

いつも当ブログを見ている人へのおまけ!


旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル 
乃木大将と会見の 所は何処水師営

「さらば」と握手ねんごろに 別れて行くや右左
砲音絶えし砲台に 閃き立てり日の御旗

「尋常小学校読本」より
*占領地に旗を立てる様子、日の丸がなびいている様子だ


続いては誰もが知っている、あの唄

一、白地に赤く 日の丸染めて ああうつくしや 日本の旗は
二、朝日の昇る 勢見せて ああ勇ましや 日本の旗は

*明治44年、尋常小学校唱歌、日清日露の勝利以後、
 まさに朝日が昇る勢いの大日本帝国をあらわして、国民も意気揚々であった。


1932年、ロス五輪応援歌「走れ大地を」という曲がある、
これは「走れ大地を力の限り~」からはじまるのだが、その最後の第三節、

♪掲げよ日の丸緑の風に 響け君が代黒潮越えて

*日の丸・君が代の揃い踏み、今のスポーツ大会の表彰式と同じだ。


次は出征兵士を見送る曲、「日の丸行進曲」(1938年)を紹介、

母の背中に ちさい手で 振ったあの日の 日の丸の
遠いほのかな 思い出が 胸に燃え立つ 愛国の
血潮のなかに まだ残る

この2年前につくられた同題名の曲には、

赤は勇気を 正義を示し 白は博愛 平和のしるし

*ラ・マルセイエーズを髣髴させる色の説明、それでも海外の国歌から比べれば
 勇ましさよりも、悲壮感を漂わせている感じがする


ここで面白い比較を載せておく、文部省唱歌「日の丸の旗」の二番だが、作詞当時は

♪朝日の昇る 勢い見せて ああ勇ましや 日本の旗は

これが昭和22年、戦後刊行の文部省著作「いちねんせいのおんがく」に
「日の丸」と題し、修正して掲載された。

♪あおぞらたかく 日の丸あげて ああうつくしい にほんのはたは

このように同じ楽曲が、時代を経て詞が変わっていくのは時代を感じる。

2006年5月7日記載


明治に入り列強の仲間入りをした日本は、天皇の御世を前面に押し出していく、
日本人に希薄なアイデンティティと中心的存在を明治政府は天皇に求めたのだ。

黒船来航とともに急速に世界の渦中に引きずり込まれる日本国、
極東の平和な島国は、君が代を「天皇の世=日本の世」とすることで
体制の強化と我が国の中心線を決定し、外国との対等外交に向かうのであった。

今回は時系列で「君が代」を追っているので、わかりやすいと思ったりする。


明治15年1月、国歌選定に着手、「小学校唱歌集」作成などと並行して行う。

3月、六編の草案を書き上げる、

 その壱(二首)神器・国旗
 その弐(三首)日出処・日本武尊・蒙古来
 その参(二首)聖世頌・蒙古来
 その四(四首)尊王愛国
 その伍(二首)大伴家持・神功皇后
 その六(三首)楠氏の軍歌に擬す

では例として最初の「神器」の歌詞を書いておこう。

 国を照すは鏡なり国を守るは剣なり 国の光は勾玉の妙なる玉にぞたとふべき
 天津日 のつぎつぎに三種の宝伝へ来し、すめら御国は大君の
 千世万世も治しめす国  (合唱)

 いざ国民よ 君万歳と歌へかし 君万歳と祝へかし いざ国民よ 君万歳と祈れかし



こうしてひとまず草稿を出し、国際交流の場で歌われる国歌の選定については、
フランスの「ラ・マルセイエーズ」を念頭に、

「国歌というものは、特定の個人あるいは機関がある意図を持ってつくろうとしても
 できるものではない。あまり焦らないようにしよう。」


政府が国歌をつくり強引に歌わせる方法には慎重な姿勢を示し、
この選定作業を中断させたのだ。


明治政府の教育制度の変遷を縦並びで記しておく。

明治19年3月2日
小学校令公布。中学校令公布。

明治21年2月3日
文部省、「紀元節歌」を学校唱歌として選定送付
紀元節・天長節に祝賀式典を行うよう内命。天皇崇拝を普及。

明治22年12月
文部省、全国の高等小学校に「御真影」を下付。
この保管のため、奉安殿・泰安陣を設置。
登下校の際には必ず最敬礼。


明治政府は明治22年2月11日、大日本帝国憲法を発布した、「君が代」が
学校で国歌として扱われるようになったのは、明治政府が明治23年10月
30日
、「教育勅語」を発布してからである。


明治24年6月17日、文部省令「小学校祝日大祭日儀式規定」を制定、同年
10月には道府県に対し、祝日大祭日に歌うべき歌について「主として尊王愛国の
志気を振気するに足るへきもの」と指示する通牒を発し、祝大祭日に相応しい唱歌
を合唱することなどを定めていたが、相応しい唱歌が具体的には示されておらず、
まだまだ選定の段階であった。


この後、紆余曲折があり、文部省は明治26年8月12日、儀式用歌詞を選定し
「祝日大祭日唱歌」として、君が代、勅語奉答、一月一日、元始祭、紀元節、
神嘗祭、天長節、新嘗祭の8曲が選定され、官報付録に発表した。

これを官選唱歌という。

そしてこれを普及させるために義務教育の小学校において、まず「君が代」を公式に
取り上げることとした。

「君が代」は法制化されていないにも関わらず、明治33年8月20日に小学校令が
全面改訂されたのに伴い、制定された「小学校令施行規則」により、祝日大祭日には、
紀元節・天長節・一月一日に「君が代」をを合唱することが義務付けられた。

之に先立つ明治30年には、陸軍が「君が代」を軍楽の奏楽として公布している。



「君が代」は実際、法制化はされていないのだが、
学習綱領として国民の間に普及、定着していき、やがて国民生活の
なかで慣習法化するまでに至る、これは明治時代の日本の全体の
雰囲気や日本民族の意識によって、いつの間にか国歌として扱われる
ようになったのだ。




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君が代を不協和音で演奏するとはふとどきせんばん!斬り捨てる!



次回は「共産党・日教組VS文教族」をアップしようと思っていたのだが、
なにやら面白い記事を毎日新聞さんが書いたようなので、サラッと変更、

「各国の掲揚と斉唱の教育現場の違いと、こんな教科書でいいんですか?」
アップします、それではごきげんよう、また明日~~~。


教育勅語   魂を抜かれた日本人(にっぽんじん)   新ゴーマニズム宣言special戦争論


2006年5月8日記載



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